徒然草第四十一段 社会性

この徒然草第四十一段は、徒然草の中でも、重要な段である・・と、島内裕子教授は講演でお話しになられた。これまで徒然草の文章の展開は、いわば引きこもりである。自分の家にいて思索を書き連ねていたのだが、会や世間に、兼好法師が接触したことが語られた重要な段なのだ・・と。。
おぉお。そう言われるとw なるほどである。
イベントで馬の見物に行くと人が一杯で、よく見えない。木の上のみるとそこに登って見物している人がいるのだが、それが居眠りをしている。他の見物客が、「危ないね、ありゃあバカだよね」という。たぶん、俺なんかもその場にいたらそう思う。気が向けば、「あんた危ないよ」と声をかけているかもしれないけどな。けれど、兼好法師は違う。「自分たちは地面にいるけども、明日のことがどうなるわからないのに、こんなイベント見物に興じている。バカなのは同じだ。」とつぶやく。すると、周りの人に聞こえてしまい「てめぇ、何しらけたこと言ってやがる」と喧嘩を売られるわけでもなく、むしろ、「おぉ!」と感心され、前のほうの席に案内されて見物した・・とw
「見物している自分たちはバカである」と言ったのにwいい席で見物しちゃうのであるw 席を勧めてくれた人たちの好意を断らなかったのだ。兼好法師が人嫌いの気難しい奴だったら、一緒に見物なんてしないだろう。またそもそも、ほんとにバカらしいと思う教条的な堅苦しい坊主なら、最初からその場所に出かけていかないだろう。酒の話や大根の話もある徒然草なのだ。堅物で、人付き合いのできない人間ではないんだな。これは発言した時の、トーンや言い方もあるだろうな。内容だけ文字で読めば、バカにするのか、喧嘩売ってるのかととられかねない内容である。でも、そうじゃなくて受け入れられる。「うまいことを言う、座布団1枚」って感じだ。もしかしたら、「坊さん、一緒に食ってくれ」と見物しながら食事をすすめられたかもしれない。なんか情景を想像すると、不覚にも泣けてくる。孤独じゃないんだよ、兼好法師は。
徒然なるままに日暮で、やってることは、ニートや引きこもりなんだが、その精神性やもっているモノは、だいぶ違う。少なくとも、十分以上の社会性、コミュニケーションの能力をそなえていることや、その言葉が反社会的になものではないことが、ここでもわかる。

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